「精神障害者は危険」は

差別意識がなせる誤認の最たるもの


  今回のようなやりきれない悲惨な事件が起きると、無縁の精神医療利用当事者に必ずふりかかる差別。その最たるものは、「危険な精神障害を隔離せよ」という、憎悪の虜となってまっとうな思考からはずれた、感情論の横行だと思います。なにも感情論が悪いとは言いません。それは今回事件の悲惨さにやりきれない思いをもち、そしてそれ以上に、報道機関の正当でない報道のあり方に憤慨している私とて、感情論から完全に自由であると、いいきれないからです。

(注意)以下の文章をもって、今回の事件が「精神障害」による犯罪であるということ示すものではありません。今回マスコミ報道が精神科通院歴を強調することによって生じた、理不尽な事態を意識してのものです。

  しかし、今回あらためてきちんと知ってもらいたいのは、「精神障害者」の一人一人は犯罪から無縁であるという事実です。それは、精神保健分野において志をもって従事している者、あるいは、日々現場にいて理解を深めている専門職の者、日々生活をともにする家族の者にとって、このことが動かし難い事実であることはいうまでもありません。

  にもかかわらず、今回もマスコミでは、精神障害者のありのままの姿を描く(*)ことなく、社会保安が自己目的化した「隔離論」ばかりが先行し、ネット上ではあからさまに憎悪の念をぶつけた嫌がらせの言葉が、あちこちの当事者団体のサイト(ある掲示板のログ)に大量に書き込まれるという理不尽が横行しています。さらに今回、容疑者に精神科通院歴があったことによって、「触法精神障害者」の問題が脚光をあびているようですが、「<保安処分>だけを作れば事件がなくなる。<保安処分>があればこういう事件が減るというのは、やや短絡的(TBS「ニュース23」池原毅和弁護士)」とさえ思えます。もし「触法精神障害者」の問題が重要な先決事項であるならば、むしろ効果が期待できる政策は、医療における「精神科特例」の撤廃とマンパワーの充実、医療と社会とをつなぐ中間施設の充実を支える支援策です。にもかかわらず、今の状況では、中間施設としての「精神障害者授産施設」や「共同作業所」などの建設に反対する差別的な運動が、ますます全国で頻発するのはないかと危惧します。そして、ますます煽りたてられての社会不安がもたらす、悪影響をも危惧しています。愛媛大医学部の金沢彰教授は、ある住民紛争事件の新聞報道のなかで求められたインタビューにおいて、「医療にかかり、社会復帰を目指している精神障害者は犯罪、危険とは無縁」と強調しています。

*数ヶ月前にあった、TBS系列の番組「ニュース23」におけるシリーズ特集「幸福論」のなかの、共同作業所「べてるの家」のルポは、一つのモデルであるように思う。

■「精神障害者の犯罪率が低いは嘘」の大嘘

  あえてものものしい表題にしました。なぜなら、今回に限らず常に、精神障害者が犯罪と無縁であることを、特定の統計を持ち出して真っ向から否定する言論があり、決して正しいといえないものがあるからです。それはワイドショーや週刊誌などでみかける、「統計でも、殺人放火だけを見れば高いじゃないか」というものです。しかし、そういった統計を持ち出したあとに続くのは、「だから危険な精神障害者は、社会とは距離を置く方策を考えるべきである」という性質ものが多く、それには私は非常に疑念を抱いております。今のところ報道で見かけたものでいえば、6月10日夜のフジテレビ系列による「EZ!TV」(森本毅郎司会)で、住信基礎研究所・主席研究員の伊藤洋一という人物が行った発言や、事件発生当日のニュース番組における土本武司元検事の発言がその典型です。

  伊藤氏の発言はこうでした。「親御さんの気持ちになれば冗談じゃないよ!・・・・・殺人・放火に限ってみれば、精神障害者の犯罪は多いじゃないか。戦後の日本は、人権人権といってきたけどなにか代えなければいけない」。この人の強い語調を聞いたとき、私は目を疑い、次にやりきれない思いを感じました。もちろん、それは当事者の思いとしてです。しかし、冷静に考えてみても、この論調は以下の点で間違いがあるように思われます。

(1)こういった発言が取り上げる統計の誤謬性に関して。

  精神障害者が引き起こした犯罪が、重大犯罪に限れば高いという統計は、実は統計の名に相応しくない、いい加減な部分があります。その一つとしては、精神病の定義において精神障害と分類するときの論証手続きの問題です。たとえば医学の進歩が、とりわけ同じ脳という器官を扱う脳神経外科においてここ最近に目覚しい進歩を遂げているのにくらべ、いわゆる精神科の分野の水準が未発達という背景があります。分裂病の診断基準には、客観的ないしは物理的測定方法がなく、DSM-IVといった代表的なマニュアルもありますが、こういったものも現象している症状を通じて判断するのに頼っている現状です(MRI撮影や血液検査などを用いるのは、別の(内科的な)疾患の疑いないかを検査するためのものです)。つまり、たとえば分裂病といった病名は、医学の世界での議論のよって定義づけがなされているにすぎず、臨床の現場での個別の診断も、医師の主観的判断に頼っています。治療行為としては、病名の判別よりも、生活でどのような不便を実際しているのかを、重視して行っています(ただし診療・治療行為としては一定の成果をおさめています)。しかし、統計をまとめる場合には、狭義の精神医学やDSMで観察可能な症状だけで形式的に分けている程度のことにすぎない。それゆえ、特定の事件と因果関係があるとする容疑者の付随性質を、器質性の精神症状ならばともかく、これらも含め「分裂病」「躁鬱病」「パーソナリティ障害」「境界例」「神経症」「中毒患者」「てんかん」その他、ひっくるめての精神障害というカテゴリーのなかに、いかなる手続きでもって分類しているのか、この手続き自体が、統計として成立するには科学性に非常に疑いがあります。ちなみに、こういった趣旨のことは手軽に入手できる書籍(『「こころ」はどこで壊れるか」(洋泉社))で、精神科医の滝川一廣氏らによっても詳細にコメントされてますのでご一読をおすすめします。以上において指摘したいのは、偏見を助長させる論調を取る人たちの多くが、言説の対象とするグループも、また、彼らが取り上げる統計でカテゴライズされている集団にしても、いわば、事実とは異なる仮定上・想定上の集団にすぎず、現実に一致したものとして論ずることは、きわめて不正確であるということです。
  もちろん、以上のように、そもそも「精神障害者」と「健常者」の二分法的思考自体が科学的認識として問題を抱えていると思うのですが、他にも統計に内在したパースペクティブにおける不正確さでは以下のことが指摘できます。それは、「精神障害者による犯罪」と「健常者による犯罪」というものを統計に集計している際、そもそもの犯罪認知率がはっきりしていないために、犯罪率の算定が不正確になっているということです。精神病の症状にとらわれて理性的判断力をともなわない犯罪の100%が認知され検挙・解決にまで至っているということに対して、「健常者」による犯罪の多くが、計画的であり、狡猾であるゆえに表面化して検挙されることを逃れていることは、どの程度考慮されているのでしょうか。さらに、前者の犯罪がすべてにおいて単独犯によるものに対して、「健常者」による犯罪は、複数犯であり組織的なものが数多くあります。また警察側での検挙率の低下をさけるための操作といったものが確実に存在するなかで、より検挙が困難である後者のものはより認知率が下がる傾向があります。また、表面化されない犯罪や、教唆した人物や組織の構成員が統計にカウントされない事例も存在します。
  もっと言えば、統計を根拠にして「社会保安」ばかりを念頭に「隔離的要素」の強い施策を求める人の論理が破綻している最大かつ確実な根拠には、以下のものが挙げられるます。それは分裂病患者の殺人事件の被害者は、71%が親、子、配偶者であるということです。家族ならばその犯罪が許されるというわけではありませんし、悲惨なことに変わりはありません。しかし、被害者が精神障害者と関わりのない第三者の他人であるケースに限定すると、統計上の犯罪率は、重大犯罪に限ったとしても、分裂病患者は健常者より低いものになってしまいます。したがって、他人が精神病患者を怖れることに、何の根拠もなくなります(『精神分裂病と犯罪』(金剛出版、1992年))。  以上をふまえて、精神病者の家族の立場からはっきり言いましょう。「触法精神障害者の保安処分」を推進する人が、己の論の正当性の主張に統計を持ち出す場合は、単なる事実の見落としなのかもしれません。しかしこういった誤認をさせる心理的背景は、潜在意識に潜む差別意識が為せる罪悪の最たるものなのです。「保安処分」を喧伝することが、どれほど当事者の生活に被害を与える可能性が高いのかに気が付いていれば、こういった統計が抱える誤謬性について、もっと敏感になれるはずだし、統計をもちだすことに慎重になれるはずです。(*統計に関する部分、岡部様からの詳細な情報提供とご指摘を大変参考にさせていただきました。また少なくないかたのご尽力に感謝します)。

(2)統計という数値上の価値基準を用いて、一人一人の生活を左右するような判断を行うことが陥りがちな危険性

  「保安処分」を推進する者の論理でいえば、<「精神障害者は統計上も危険」よって「市民社会から排除」>ということしたいのかもしれませんが、もしある人物を本人の意思に反し、「予防拘禁」や「保安処分」によって閉鎖病棟や司法に委ねられた禁固施設などに隔離するとすれば、それは、その本人の人生を左右するきわめて重要なことであるのは言うまでもありません。人権上の重大事項を統計上の事実でもって左右できるのでしょうか。こういう言い方をすると「人権屋が」という人が必ずいるものですが、現実的に人間の尊厳は、生命そものとおなじくらい、どこで生きるのか、どのように暮らすのか、どこへ行くのも自由なのかといった要素を、欠く事はできません。それを「統計や確率上、○○という集団は危険だから」という判断でもって、社会から排除することがあっていいのでしょうか。ちなみに、「精神障害者の排除」を喧伝する人たちがよく用いる主張に、こういうパターンのものもあります。「被害者のことを思えば、失われた命は二度ともどってこない。だから、危険な障害者の凶悪な犯罪を許せない」。それならばなおさら、もっと慎重になることはできませんか?統計上の数値によって引き起こされる人権の侵害が、ときとしてとり返しのつかない過ちを犯すということを。
  それでもなお、「社会全体のためならそれは許される」という人がいるとしましょう。そういう人に私はいいたい。「確率論で社会の安全を論ずるなら、それが根拠とする統計の誤謬性についてはどうするのか?」と。<功利主義の誤謬>があちこちで指摘され、この立場が破綻を来していることを、一度は耳にした人もいることと思います。

  統計や数字で持って安易に人を隔離することが、犯しかねない過ちについて、一番わかりやすい例なので、やはりハンセン病国家賠償訴訟の例を思いだしてください。ハンセン病患者の隔離は、当時の「医学の科学的判断」にもとづいてなされました。そして、そもそもの感染率の低さなど、しかも、1904年に法律制定してすぐの、1923年「国際らい会議」においてさえ、海外から隔離に対する否定的な見解が主流でした。そして法律制定前までは、日本でも決して少なくなかったといいます(NHKスペシャル6月17日より)。戦後になって治療法が確立しいっそう国際的非難の対象となっていた。それにもかかわらず、隔離の撤回という判断を拒んだ頑なな勢力があったことは周知のことです。

  また、ハンセン病の隔離政策が行われた当初、その対象となったのは、村の「やっかいもの」として追放され放浪を余儀なくされた患者であり、その立場の人たちの「居場所」の確保のためともいわれていました。すなわち、ある意味での福祉政策という正当化のもと、この隔離が「社会的に危険ある感染の予防に寄与し、10年後にはハンセン病が消失し、社会からの偏見もなくなる」といった主張において為されていたことです。しかし、いわば<福祉政策の装い>をしていたその政策が、その後いかなる帰結をもたらしたのでしょうか。

  今回も、そういった仕方の主張がなされていないか注視してみてください。「触法精神障害者」の議論において、司法に委ねられたあらたな施設を提唱する人の多くが、いったいどういう語り口をしているのか。

「社会的に危険性ある触法精神障害者の犯罪の予防に寄与し、今後、悲惨な事件が消失すれば、精神病に対する偏見もなくなる」。かのように主張している人、こういう見解こそ、もっとも信用できない言論であるように思われます。(ちなみにこういう主張に感じた傾向は、普段は精神保健福祉のことに取り組んでいないコメンテーターや週刊誌によるものであること、あるいは専門家だとしても、たいていは臨床家というより、研究者・評論家に多いということです。あくまで傾向ですが。)

  ハンセン病患者の隔離――裁判に勝訴したとはいえ、今現在、全員が高齢者となった彼らを救済する術は、もはやほとんどなくなっていたという事実を、国家賠償訴訟で明らかにされて、震えを感じなかった人がいたでしょうか?

  それを知っていて、あなたは、誤謬に満ちた統計を鵜呑みにする、にわかに用意されたタレント識者を信用して、精神医療利用者とその家族に偏見をいだきつづけますか?

  それとも、マスコミの抽象的かつセンセーショナルな論調をすて、生活の実感の大切さをとりもどし、常に機会あるところ、「普通に」障害者と接してみようとは思えませんか?

 私の手元に(大学の研究者の社会調査による)おもしろい調査結果がある。……わたしたちの病院(引用者注:この病院は全て開放病棟で、地域住民との交流も活発にすることを宣言し、そして実績を重ねてきたとされている医療機関です)のいちばん近くに住む人たちをA群、少し離れて住む人たちをB群、遠くに住む人たちをC群とした。

 「患者をよく見かけますか?」
この設問の答えは、無論、A→B→Cの順だ。
 「患者から迷惑をかけられたことは?」
この答えも、A→B→Cの順である。
患者のために弁明しておくが、迷惑行為の内容は、「自動車の警笛を鳴らしても、すぐ避けてくれなかった」の類である。(中略)

そして最後に肝心の質問である。
 「患者があなたの隣へ越してきて住んだら、彼を受け容れて接してあげますか?」
それにイエスと答えたのが、A→B→Cの順だった。「よそへ行ってくれ」は、C→B→Aだ。

 つまり、こうなのである。「身辺に患者と接する機会の多い人ほど、患者を受け容れる態度はよくなる。その機会の少ない人は、患者を避けようとする」

 それがこの調査の結論なのであった。

★石川信義著『心病める人たち―開かれた精神医療へ―』岩波新書、より引用。

 


■「人権屋」という批判あるいはこの言葉がもたらす思考停止

以下は、TVで目撃した「人権人権といってきたけど……」に対してひとこといいたいと思ったこと、また、上の文章を記した理由を含むコメントである。

  今回この文章を書いた理由の一つめは、「犯罪率は低いの嘘」といった言論が多く用いる常套文句に関わってくる。この常套文句とは、<「人権屋」からの弾圧>というフレーズである。「犯罪率は低いの嘘」を持ち出す立場は、精神医学や規範理論の立場から批判される時、あるいは、目にした関係団体からの強い批判が浴びせられる時、反攻撃のためにこのフレーズを用いることが多い。また、これほど公的な場でなくても、いろいろ議論の場において、「人権屋が」だとか、「どうせサヨクだから」といった捨て台詞のようなものを耳にすることが多い。

  やっかいなのは、このフレーズが、戦後民主主義においてむしろ「体制派」といえる、人権尊重の立場の対抗軸として用いられる点である。この過激な響きには新鮮さがあるらしく、若者を中心(私も若者世代だが)に、一定の市民権をえてしまっている要素を感じざるを得ない点がある。しかし、このフレーズが使われるときには、もはやそれを使用する者は何を言っても「人権屋」で終えてしまうことが多く、こちらの話が通じなくなってしまうことに、私は危惧感を覚える。

  二つめとしては、、今回の事件の衝撃の大きさのゆえか、本文で前述した問題のある主張が公共の放送でながれても、これと同じ公共的空間のなかで別の放送局などからは、何の批判もおきていないことである。

  私はいわゆる「人権屋」でもないし、政治的立場は民主主義者かもしれないが、たぶん「保守主義者」だと思う。だからといって、私の意見が「左翼的でない」だとか「常に偏っていない」という主張するつもりは毛頭ないし、いわば「病者家族」だという立場についても隠すつもりはない。それでもなお、この話題に関して、特定の立場に批判的な文章を発したのは、私が当事者として、ヒステリックになっているからなのではない、とはっきりいいたい。

  むしろヒステリックなのは、センセーショナルな状況の虜となって、自由な思考を保てない人たちではないだろうか。それは、ワイドショー的な舞台で「情宣活動」を行うコメンテーターのことであるし、それを批判的に咀嚼せず鵜呑みにしている視聴者にもいえるように思う。今回、感情論だけにとらわれた横暴が、あまりにも目立っている。

マスコミの報道は一過性ですが、精神医療利用者に対する偏見と憎悪を人の心に永続的に残します。


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